煎餅物語 〜 煎餅の由来と変遷


                    
◆煎餅のルーツ

  煎餅のルーツは古く、昔々中国の前漢(紀元前202年〜後8年)の時代からあったそうな。

  この頃、中国宮廷の正式の食事、それも正月7日や3月3日といった、めでたい祝日の食膳に加えられたものだそうです。

  日本に入って来たのは、仏教の伝来とほぼ同時期らしく、その当時の煎餅は、水で小麦粉を練ったものを油で煎ったものでした。

◆由  来

  804年に、「空海(弘法大師)」が唐の長安に渡り真言密教を学んでいた。、順宗帝に招かれた時に、その料理の中に亀の子型の煎餅があったそうです。

  その風味が良かったので空海はその製法を修得して帰り、大同元年(806年)帰朝後、山城国(現在の京都府の一部)葛野郡嵯峨小倉の「和三郎」という菓子屋に、亀の子煎餅の製法を伝授し、和三郎はこれを製造して「亀の子煎餅」と名付け嵯峨天皇に献上して、大いに名を上げたそうです。

  その後、「和三郎」は亀屋和泉・藤原重と号し、色々な菓子を考案して、全国に広めたそうです。

  その当時、小麦粉に果実の糖液を加えたものを、鉄板の上で焼いたものと、米粉に塩で味を付けて、これを蒸し、薄く延ばして丸形に抜き、天日に干したものを火箸で挾み火鉢の上で焼いたとあります。

  現在の塩煎餅(草加煎餅)の元祖も弘法大師が持ち帰ったものの中から、その製法が、発達途上で2つの異なった煎餅に分かれて行ったものと考えられます。

  当時は、ごく粗末な煎餅であり、長い間、その範囲にとどまっていましたが、江戸時代の元禄年間に入り、暫次、工夫を加えて急速に流行して行きました。

  もっとも、「松風」は、室町時代からあったといわれているので、高貴の方々や茶人の人々には、古から好まれていたようです。

◆変  遷

  天和3年(1683年)江戸本町、桔梗屋の菓銘目録中に「高麗煎餅」(大阪堺市の高麗屋で売り出されたもの)の名があり、また、江戸時代の書物中に貞享年間(1685年)京都六条で製した「六条煎餅」、大阪堺の津の「鬼煎餅」などがあり、この鬼煎餅は、その形状が鬼の面のようにふくれるところから命名したとあります。

 元禄時代以後煎餅が盛んになった理由は、その当時売り出された「大黒煎餅」の力によるものといわれています。大黒煎餅の形は三角形で、中に木像の大黒様を紙に包んで折り入れ、これが当たると“福の神”が舞い込むというこから、非常な売れ行きをみせたそうです。

 寛延(1750年)〜明和(1764年)にかけて、江戸で有名な煎餅は、「木の葉煎餅」「歌煎餅」で、この「歌煎餅」は、百人一首のカルタの形状をしており、それぞれの歌の焼き印が押されていて大好評を博したそうです。

 安永の頃(1774年)になると種類も多くなり、当時の煎餅の部に、巻煎餅、薄雪、木の実、団十郎、羽衣、吉野、松風、めった、千鳥、近江八景、つくばね、五色、若葉、利久、七草、若松、名取、はつれ、雪、丸山、軽焼などの名が現れています。

  また、他の書物には、砂糖入り煎餅は、“江戸柳島の産なり”とあります。

 「巻煎餅」は、“堅焼”と“有平巻”(飴の有平糖は1638年頃長崎で最初に作られ、70年を経て京都に移入され、京菓子司の研究によって美術的“有平細工物”が創製され、現在に継承されてきました。この有平糖の飴を芯にして巻いた煎餅)があり、“堅焼”は、吉原の竹村伊勢から売出し、“有平巻”のほうは、絢巻アヤマキという菓子から創案されたもので、赤坂一つ木の中島屋徳兵衛が売出し好評を得たそうです。

 江戸照降町、翁屋の「翁煎餅」は、その昔高砂煎餅といって名高く、形は小判形で、翁の面の模様がついていました。

  「柳煎餅」は柳の葉の形で、上に砂糖が引いてあり、ハッカの香りがする煎餅で、お土産菓子として珍重されたといわれています。

 また、江戸名物の「紅梅焼」を模擬したものに「雷焼」がありました。これは、小麦粉に“檜木玉”という下等の砂糖を混ぜて練り合わせたもので、麺棒で延ばして丸形に抜き、焼き板の上に乗せ、巴の紋を押して焼き上げたものです。「雷焼」を売る店には、必ず“招き猫”の看板と、雷の名にふさわしい雲に雷光と太鼓の絵を書いた看板があり、好奇心をそそって、一時は隆盛を極めたそうです。

 名物煎餅のうち変わったものでは、信濃路で足利尊氏が寄進した饅阿寺の鬼瓦、足利時代の「唐草瓦」、鎌倉時代の「巴瓦」、文永頃の郡部八幡宮の「唐草瓦」があり、古風珍奇な形を取って煎餅にしたもので、昔の面影がしのばれる煎餅です。

 文化3年(1807年)の頃、大阪で売り出された東名物「拳頭煎餅」というのがありました。これは、食べるというより、遊戯を主として造られたもので、その当時、江戸で流行した“藤八拳”の形、即ち、1ケン、リャンコよりトウライ迄の形を錫で造り、丸形の煎餅に包み込み、これを割って食べながら“藤八拳”の遊びできる煎餅でした。

 九州には、田主丸の「太助煎餅」というのがあり、創業も古く、現在、形も昔のまま残されています。

 常陸(茨城県下妻市)には、親鸞上人の縁起による「松皮煎餅」があります。

 また、おもしろい伝説を持つ、「ねぼけ煎餅」は、文化の頃に狂歌で有名なねぼけ先生、即ち、山蜀人(しょくさんじん)自筆の狂歌を煎餅に書いて混ぜて売ったところから、この名称が出たとのことですが、どうしたことか、「ねぼけ煎餅」の主人が江戸をあとにして神戸に来て開業しました。今日の「瓦煎餅」は、この「ねぼけ煎餅」の末流であるという説があり、現在、大阪市天神橋に“ねぼけ堂”(現在、全国に“ねぼけ堂”グループ30社)があります。

 文化年代(1810年)神奈川宿の若菜屋が、初めて小麦粉に卵・砂糖を加えた、丸い亀甲形模様の「亀の子煎餅」を製造し、大奥や諸大名の参勤交代のときの御用を賜って好評を博したそうです。現在、この系統をひいているものに、横浜の「亀楽煎餅」、下関にある・江戸金の「亀甲煎餅」があります。

 天保(1837年)の頃、八ッ橋製の大きな「大黒煎餅」に俳優のの似顔絵の錦絵を貼り付けたものが流行し、芝居好きの者は、ひいき役者の錦絵の付いたものを買い求めて喜んだといわれています。

◆現代まで継承されている各種煎餅◆

 亀甲煎餅・瓦煎餅・味噌半月煎餅・烏賊イカ煎餅・豆入り蜂蜜煎餅・ミルク煎餅・
  磯部煎餅・鶏卵煎餅・木の芽煎餅・梅鉢煎餅・格子煎餅・三味胴煎餅・ココア煎
  餅・末広煎餅・利久小丸煎餅・松葉煎餅・寒月煎餅(小姜ショウガ密りん掛け)・小姜
  煎餅・つや巻煎餅(有平芯巻き)・絹巻煎餅(海苔つけ有平芯巻き)・蓮巻き煎餅(有
  平芯巻き)・胡麻煎餅・ビンズ煎餅・文楽煎餅・巴瓦柔らか煎餅・ゴーフル系煎
  餅・意匠煎餅春日山(三味胴形)・歌舞伎狂言煎餅・ピーナッツ煎餅・エッグ福寿
  煎餅・栗煎餅・若鮎煎餅・山椒巻煎餅・フアース白巻煎餅・炭酸煎餅・小豆煎餅・
  つまみ煎餅・唐松煎餅・野菜煎餅・塩煎餅・木の葉煎餅・網代煎餅・辻占煎餅・
  瓢箪(ひょうたん)煎餅などがあります。

焼き菓子あれこれ

◇松  風◇

  小麦粉に白双糖・水飴・重曹を用いた生地を、銅製の平鉄板に盛りつけ、薄く延ばして上面に芥子をふりかけて裏白に焼き上げ、熱のあるうちに定規を当てて包丁で長方形に切ったものです。

  現在は、芥子のほか、胡麻やスライスアーモンドをふりかけたのもや・青海苔をふりかけた上にホンダント引きをしたものなどがあります。

◇いさご煎餅◇

  小麦粉、上用粉に精白糖と卵白を混ぜて水で練り合わせた生地で、松風生地より少し軟らかめに捏ねつけ、6ミリ丸の口金をつけて天板に絞り、上面に芥子をふりかけて焼き上げたものです。

◇紅 梅 焼◇

  江戸時代は、小麦粉に砂糖を混ぜて水で捏、寝かせて発酵させてから麺棒で薄く延ばし、短冊や梅の花、扇の形に抜き、胡麻油を塗った鉄板でこんがり焼上げた煎餅でした。

 現在は、小麦粉・上新粉・鶏卵・精白糖・水飴・重曹に煎り胡麻を混ぜて練り合わせた生地で、短冊形に切って両面を一文字焼で焼き上げます。

 起源は、東京浅草の梅林堂の製品で、享保年間(1716〜1736年)、浅草観音堂の境内に名木の紅梅があり、その木の蔭で紅梅の形をした小型の煎餅を焼いて売ったところ、ゆかしい風味が好まれて江戸名物になりました。名木にあやかって紅梅焼と呼ばれるようになり、余りにも有名になったため、江戸の至る所に紅梅焼を売る店が出現したそうです。江戸時代の末期には江戸の駄菓子の一つとして人気を博しましたが、梅林堂の紅梅焼でけは別格とされていたそうです。

  銭形平次の生みの親、野村胡堂や夏目漱石、円地文子などにも愛された菓子です。

◇八 つ 橋◇

  「八つ橋」は、京都名物の土産品として有名です。

  この菓子も変形した煎餅の一種で細長い短冊であるためか、三河の国の伝説にある八つ橋と思われがちでありますが、この形は琴を表現したものです。

  八つ橋の菓名は、名声高い筑紫琴の祖、八つ橋検校の没後(1684年頃)検校をを慕って詣でる参拝客の土産品として、1725年頃から売り出されたもので、横に反りをつけて琴の形に仕上げて菓名としたものです。

 製法は、白玉粉に上新粉・小麦粉を加えて硬めに捏つけ、セイロで蒸す。よく蒸したら臼にあけ、手水を使わず充分に搗き抜きながら、この中に砂糖を少しづつ加えながら搗き上げる。次ぎに、水飴を加えて揉み混ぜてから桂皮末を加えて更に揉みまぜる。

  仕上がった生地を麺棒で延ばし短冊に切り、板の上に並べて裏表を平均に乾かす。よく乾いたら、一文字焼の鉄板に中火以下に調整し、樫の厚板で押しつけながら両面を均一に焼上げ、木製の溝形に縦に入れて反りをつけます。

◇塩 煎 餅◇

  弘法大師が唐の国から持ち帰った煎餅の製法は、亀の甲煎餅や瓦煎餅として発展して行きましたが、塩煎餅はその中でも下級とされ、農家が残り飯を煎って蒸し、塩を混ぜて延ばし、竹筒で丸形に抜いて天日で干し、炭火で焼いたのが始まりといわれています。その後江戸中期には一時すたれましたが、文化・文政の頃に本所柳島で売り出されたところ、江戸中の人気を集めることになり、その頃、江戸で煎餅といえば、この系統のものだけと考えられたほどでした。文献にも「塩煎餅といふもの昔の煎餅にて廃れてのち、近在にて稀に見えしをこの頃は、江戸にも流行りて本所柳島辺にて多くつくり、所々の辻にて駄菓子と同じく売り、また神仏の縁日にも持ち出て売る」とあります。

 紀州の浜口義兵衞が、銚子で醤油造りを始めたのが1645年ですから、この時期、すでに塩煎餅には醤油を用いていたと思われます。

 塩煎餅は、江戸近在の町屋、千住、金町、柴又、草加、越谷で繁盛しましたが、醤油の効いた堅いこの煎餅が関東人の好みにぴったりだったのでしょう。

 埼玉県草加市の「草加煎餅」は、代表的な塩煎餅です。しかし、その起源ははっきりしませんが、宿場町の団子屋さんが団子を平につぶして天日で干し、焼き餅として売ったのが始まりとういう説があります。

◇南部煎餅◇

  青森県、岩手県、宮城県などで造られている素朴な煎餅で、糖分を使用しない淡泊な味の煎餅で、生地を型に入れて焼く際に、胡麻、落花生、胡桃、抹茶、海苔などいろいろなもの乗せてます。

  古くは、農家の人たちが片手間に主食代わりに蕎麦粉を練って焼いて食べていました。 建徳年間(1370年〜1371年)に長慶天皇が青森県八戸地方を行幸された折り、従者が農家から蕎麦粉と胡麻をもらい雑兵の鉄兜を鍋にして焼いて献上したところ、大変喜ばれたのが由来です。

  南部砂鉄の鋳鉄で煎餅型を鋳造したのを機に、江戸からの小麦粉煎餅に変わりました。初めて商品として売り出されたのは、1830年に南部支藩八戸2万石の城下で売られたものと伝えられています。

◇紅蓮煎餅◇

  「こうれんせんべい」なるものが、秋田県と宮城県にあります。宮城県では観光地で有名な松島、秋田県では由利郡象潟町(きさかた)にあり、どちらも海に面した町で、松雄芭蕉が訪れて「奥の細道」に描かれている土地です。

  「こうれんせんべい」は、煎餅なのですが、とても柔らかくて軽い、とてもおいしい煎餅です。柔らかく、軽く、口の中で溶けてゆくような煎餅で、象潟の方では、赤ちゃんの離乳食となっています。

  象潟のものと松島のものは、味はほぼ同じ、形に違いがあって、象潟のものは丸形、松島のものは四角、象潟のものが松島のより少し厚めです。

 ●こうれんせんべいの由来と悲話●

  江戸の時代、松島に掃部長者というものがおり、一人息子に仕事を任せ西国巡礼に出かけ、旅先で同じ奥洲の出羽象潟から来た人に出会い旅を共にした。旅も終わろうとする頃、彼らは一人息子と一人娘を持っていたので、二人は娘と息子の結婚に同意し、象潟のものが娘を松島に送ろうと約束した。だが、掃部長者が松島に帰ってみると、一人息子の小太郎は亡くなっていた。長者は嘆き悲しんでいたが、そんなある日、長者は若い娘の訪問をうけた。

  「象潟のものの娘でございます」
  娘は、小太郎が亡くなったことを知らなかった。
  長者は悲しみのあまり、連絡をとるのを怠っていた。
  長者は娘に小太郎の死を告げて詫び
「このことは無かったことにして象潟へ帰って下 さい」といったところ、
  娘は、「象潟には帰りません。小太郎様に嫁げといわれましたときから、小太郎様の
  嫁になったつもりでした。それが縁でございましょう。縁に逆らってまでこの松島を
  離れようとは思いません」というので、長者は説得しようとした。
  しかし、翌朝、娘は黒髪を全て切り落し、
尼になり、生涯小太郎の菩提を弔うというのである。
  観音様のそばの梅の木の傍らに庵をつくった。
  ひとり庵の中で煎餅を焼き、訪れる人に売って生活費を得ていた。
  娘の名は、紅蓮尼(こうれんに)という。

◇鯛せんべい◇

  日蓮宗の開祖、日蓮聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、小湊片海の地に誕生しました。その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ淵」、海面に大小の鯛が集まった「妙の浦」という不思議な「三奇端」が伝えられています。

  その鯛に因んで大正時代に町内に住んでいた鈴木貞作さんという方が、観光地に相応しい銘菓をと提案し、天津の「広木堂」さんで作られたのが鯛せんべいの始まりです。(現在広木堂さんでは、製造されておりません)

  当時は、小麦粉に砂糖を加え、白胡麻をまぶして焼いていたそうです。のちに口当たりをよくするために鶏卵を加え、白胡麻を芥子の実に変えるなど試行錯誤が繰り返され、戦後、現在の姿に落ち着きました。

  この煎餅は、鯛の形をした型抜き銅板の底に鯛の模様をつけ、生地を盛りつけた表面に焼色をつけ、模様入りの裏側を白く焼き上げ、焼き上げ後、木製の溝型の上に焼き色のついた方を下にしてのせ反りをつけます。

◇紅葉饅頭◇

  この紅葉饅頭は、明治40年頃、観光名所で有名な宮島の岩惣旅館などに茶菓子を納めていた高津常助という人が創作しました。

  伊藤博文公が宮島の紅葉谷を訪れ、岩惣旅館の茶店に立ち寄った際、茶店の娘さんの可愛いい手を「紅葉のような可愛いい手、食べてしまい」といったのを聞いていた岩惣の女将が、その言葉にヒントを得て、紅葉形の茶菓子を高津に依頼したということです。 広島といえば紅葉饅頭、と日本全国の人々に再認識されたのは、TV漫才ブームに湧いていた1980年頃の「B&B」。かたや洋七は広島出身で「もみじまんじゅ〜〜っ!!」、洋八は岡山出身で「きびだんご〜〜っ!!」と、このワンパターンギャグに老若男女が笑い転げる内に、紅葉饅頭は全国区の地盤を固めました。

◇ボ ー ロ◇

  天文12年(1543年)ポルトガル人によって、種子島に鉄砲が伝えられました。南蛮船の渡来です。このことに始まるいわゆる南蛮文化との交流は、わが国の菓子文化にも大きな影響を与えました。

  その頃わが国においては、ポルトガルやイスパニア(スペイン)、オランダを始め、わが国への経由地であったルソン(フィリピン)、ジャワ、マカオなどの国々を南蛮と呼んでいました。以来西欧との交流が始まったのです。

  南蛮の人々がわが国へ遣って来た目的は、貿易及びキリスト教の布教でした。貿易商人や宣教師などは、キリスト教が弾圧されるまでの約一世紀の間、わが国との交流を深めました。そして医学、天文学を始め印刷技術や言語、食べ物など多くの文化が伝えられました。珍しい風俗は南蛮屏風として描かれ、またビロード、タバコ、パン、コンヘイ(金平糖)、ボーロなどのポルトガル語は日本語となって残っています。

 ボーロは、小麦粉、卵、砂糖などを原料とした焼き菓子で、ポルトガル語の Bolo に由来します。ポルトガル語ではボーロはケーキ全般のことをいいます。

 わが国で最初に“ぼうろ”の名が見られるのは、カステラと同じ『甫庵大閤記』(1625年)です。また、わが国最初の図入り百科事典『和漢三才図会』(1723年)の巻百五造醸部に見られます。それには「捻頭ネントウ(今、「保宇留」ぼうる、という)・・・・保宇留は蛮語なり」と書かれていて南蛮渡来の菓子の一つであることが分かります。

  江戸時代を代表する菓子製法の書『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718年)にある“ぼうろ”の作り方は「小麦粉1升(約900g)に白砂糖2合(約220g)を入れ、水で捏ねてから軟らかに揉み、饂飩ウドンを作るときのように延ばす。(中略)金物で色々の形に切り、銅の鍋に入れて金属の蓋をし、上下に火を置いて焼く。但し、下火は上火より強くする方がよい」とあります。

  現在、わが国においては、佐賀の“丸ぼうろ”、京都の“蕎麦ぼうろ”、沖縄の“花ぼうる”などが有名です。

  参考資料:製菓実験社「新和菓子大系」
        新潮社「和菓子の楽しみ方」
    「和菓子ふぁん」など各HP